レゲエミュージシャンでありながら、ジャマイカの英雄として語り継がれるBob Marley(ボブ・マーリー)。
彼を中心に結成されたレゲエバンド「ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ」としての活動も多大な影響を与えました。
ここではボブ・マーリーをはじめ、ウェイラーズに関わった重要なメンバーも合わせて紹介してみたいと思います。
ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ
その類いまれなグループの紹介の前に、彼らをよく理解するためプチ講座を一つ。
ラスタファリア二ズムとは。
黒人によるアフリカ回帰主義の思想を掲げています。
1930年にエチオピア帝国に最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世が即位しました。
これにより長年イギリスの植民地だったジャマイカでは、黒人奴隷制の反発も併せて、下層階級を中心に信者が増大します。
これに対し、ジャマイカ政府は危機を感じ弾圧を始めるのですが、彼等は山奥に逃げ込みコミューンを開始します。
そしてその独自の思想、生活様式は確立されていきます。
ハイレ・セラシエ1世の即位前の名「ラス・タファリ・マコンネン」から由来して、その思想活動はラスタファリアニズムと呼ばれています。
聖書を聖典としていますが特定の教祖、教義も成文化されてはいません。
特徴的な事としては、まず先に述べたアフリカ回帰主義。
生活様式としては、体に刃物を入れる事を嫌うため髪を切らないドレッドロックス(ドレッドヘアーの事)。
あの独特なヘアースタイルのことですね。
アイタルフードと呼ばれる食事が主の菜食主義。
肉を食す事は禁じられています。
そしてガンジャ(大麻)を吸引する事です。
大麻を神聖なものと捉えていました。
当然、当時も非合法でしたが、社会への抗議、反抗の手段として使用されました。
以上がざっとしたラスタファリアニズムについての話でした。
そして、この思想活動の上にレゲエという音楽がクロスしてくるということになります。
やれやれ。ぜんぜんプチじゃねぇし。
ここではボブ・マーリーをはじめ、ウェイラーズに関わった重要なメンバーも合わせて紹介してみたいと思います。
Bob Marley (ヴォーカル・ギター)
プロフィール
名前:Bob Marley (ボブ・マーリー)
本名:Robert Nesta Marley (ロバート・ネスタ・マーリー)
担当:ヴォーカル・ギター
生年月日:1945年2月6日
「King of Reggae」、「魂の反逆者」など色々な形容がされるボブ・マーリー。
1945年にジャマイカのセント・アン教区、ナイン・マイルズで、イギリス海軍大尉であり、会社経営者でもあった父と、ジャマイカ人の母との間に生まれました。
10歳の時に父が死去し、経済的援助が途絶え、キングストン郊外のトレンチタウンに移り住みます。
トレンチタウンはいわゆるスラム街で当時は「ルード・ボーイ」と呼ばれるギャングが横行していた危険な地帯でした。
詳しくはレゲエ・ミュージシャンのジミー・クリフ主演映画、「ハーダー・ゼイ・カム」をご覧頂ければ。
またこの街でバニー・ウェイラーと出会い、共に音楽活動を始めて行く事になります。
そして音楽に専念する為に14歳で学校を中退し、17歳でオーディションに合格。
その後6人編成でウェイラーズを結成。
ウェイラーズ結成からメジャーデビュー
1963年「Simmer Down (シマー・ダウン)」という曲を発売します。
地元ラジオで1位を獲得、売り上げも8万枚を突破し大ヒットとなります。
まだレゲエではなく、スカの曲調ですね。
この曲は暴走するルード・ボーイ達に「カッカするなよ。落ち着けよ。」と呼び掛ける、今までにない異例のメッセージ曲でした。
良くも悪くも注目を集め若者たちの支持を受けて行く事になります。
ある程度の名声も得たのですが、生活は変わらず混沌としていた若者達、ボブ・マーリー、ピーター・トッシュ、バニー・ウェイラーらはこの頃から「レゲエの父」と呼ばれる人物、ジョー・ヒッグスに出合いレゲエ音楽を教わるようになります。
そして時期を同じくして、ラスタファリアニズムに傾倒していきます。
多くの市民達から疎んじられ敬遠されてきた集団でした。
そして1966年、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世がジャマイカを訪れます。
ジャー(Jah)、神が現れたのです。
大きな時代のうねりに巻き込まれて行く事になりました。
1973年アルバム「Catch a Fire」でメジャーデビューを果たします。
しかし、直ぐにピーター・トッシュ、バニー・ウェイラーが脱退します。
その為アルバム「Natty Dread」以降はバンド名をそれまでの「ザ・ウェイラーズ」から「ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ」に変更しました。
脱退の理由については幾つか言われていますが、ツアーに出るよりもジャマイカで暮らしたかったとか、ボブ・マーリーをメインで売り出したかったアイランド・レコードとの確執だったとか言われています。
狙撃事件で負傷もライブ決行
1976年ジャマイカでは、政治的緊張がピークにありました。
国家非常事態宣言が発令されている中、和解と平和を目指して「スマイル・ジャマイカ・コンサート」を行うことにしました。
与党、人民国家党(PNP)と野党、ジャマイカ労働党(JLP)の対立でしたが、政府与党はこのコンサートを政治的に利用しようとしました。
そして、その事実を知ったボブ・マーリーは激怒したのですが、そのコンサート前日セッション、兼リハーサルを行っている最中に銃撃を受けて負傷します。
一命は取り留めたものの、翌日のコンサートは不可能。
そう思われましたが彼等は決行します。
鬼気迫るライヴでした。
この狙撃事件の結果、与党PNPの勝利、犯人は未発見、事件は未解決のままでした。
そしてボブ・マーリーは、身の危険からロンドンへ移住してしまいます。
ジャマイカの英雄へ
1978年伝説の「One Love Peaceコンサート」が開催されました。
ボブ・マーリーはジャマイカに戻ってきました。
事件から2年後の事です。
そしてこのコンサートの途中で、対立する二大政党の党首をステージに上げ、和解の握手をさせたのです。
まさに、音楽が政治を動かした奇跡の瞬間でした。
何万人もの国民が見ている中でのこの出来事により、益々ボブ・マーリーの存在はジャマイカの英雄へと確立していきました。
死因は癌性の脳腫瘍
そしてまた2年後の1980年、アルバム「Uprising」発表後の同年、セントラルパークでジョギング中に倒れ癌性の脳腫瘍と診断されます。
その時点で余命1ヶ月前後の宣告を受けます。
ドイツの病院で治療に専念しますが、ドレッドロックスは抜け落ち体力は奪われていきます。
生き延びる為にラスタファリズムの戒律を破って、肉類を口にしてまでも体力を回復しようと試みたとも言われています。
しかし1981年5月11日、そのドイツからジャマイカへの帰路の途中に容態が悪化し、アメリカ・フロリダ州の病院で死去、36歳でした。
そしてジャマイカ・キングストンで国葬され、多くのジャマイカ人が彼の死を悼みました。
Peter Tosh (ギター・ヴォーカル)
名前:Peter Tosh (ピーター・トッシュ)
本名・Winston Hubert McIntosh(ウィンストン・ヒュバート・マキントッシュ)
担当:ギター・ヴォーカル
生年月日:1944年10月19日
ピーター・トッシュは、ジャマイカ、ウェストモーランド教区のチャーチ・リンカーンに生まれました。
幼い頃に父親に捨てられ、叔母に養子にもらわれました。
その叔母も死去した後、今度は叔父を頼りにトレンチタウンに移り住みます。
こうした切ない幼少期の為か、社会に対して反抗的、攻撃的な性格だったと言われています。
そしてジョー・ヒッグスを通じて、ボブ・マーリー、バニー・ウェイラーと知り合う事になります。
その後ザ・ウェイリング・ウェイラーズに参加。
元々作詞作曲もできるソロアーティストでもあったピーター・トッシュは、自分は自分でソロアルバムを発売しようとしますが、ボブ・マーリーをメインで売り出そうとしていたレコード会社と意見が折り合わず、バニー・ウェイラーと共にグループを脱退する事になります。
ソロ転向後、1976年、CBSレコードからデビューアルバム「Legalize It(リーガライズ・イット)をリリースします。
ボブ・マーリーが自由、平和などをテーマに歌うのに対し、ピーター・トッシュは反体制の攻撃的な歌が多かったのも二人の特徴的な違いでした。
また、彼はラスタファリア二ズムの先駆者的な存在としても有名で、敬虔なラスタマンでした。
1987年、キングストンで3人組の強盗に襲われ射殺されます。
43歳の若さでした。
Bunny Wailer (コンガ・ボンゴ・ヴォーカル)
名前:Bunny Wailer (バニー・ウェイラー)
本名・Neville O’reilly Livingston(ネビル・オライリー・リビングストン
担当:コンガ・ボンゴ・ヴォーカル
生年月日:1947年4月10日
ボブ・マーリーとは同じ小学校に通っていました。
バニー・ウェイラーの父とボブ・マーリーの母が一緒に暮らし始めたため、兄弟のように育ちました。
そして10代の頃、トレンチタウンでボブ・マーリーと一緒にジョー・ヒッグスの音楽指導を受け、そこで出会ったピーター・トッシュとウェイラーズ結成へと至ります。
バニー・ウェイラー独特のファルセットを用いた歌唱法とメランコリックな曲調は、60年代の革命的なソウル・グループ、ジ・インプレッションズのリーダーだったカーティス・メイフィールドに影響されていました。
ジ・インプレッションズは、キリスト教に基づいた黒人解放の曲をヒットさせたグループです。
また音楽だけでなく、カーティス・メイフィールドが黒人解放を歌う敬虔な宗教家であることにも共感していたと言われています。
初期メンバーの中で、最も厳格なラスタファリアンでもあったバニー・ウェイラーは、ツアーに出る生活よりもジャマイカでの生活を強く望んだ為にグループを脱退します。
アイタル・フード(菜食主義)の食事なども一因だったと言われています。
1976年にソロアルバムを発表。
その後のアルバムでグラミー賞を獲得しています。
5人の若者とは
5人の若者が集まっていました。
焚火を囲んで暖をとっています。
朝晩は結構冷え込みます。
小腹も空いてきました。
一人が何か作り始めました。
煤けた鍋を焚き火にかけてお粥を作ります。
取り分ける皿など無いので、そのまま鍋ごと回して皆で分け合いました。
空腹と寒さで冷え切った身体に温かさが染みていきます。
この路上生活の中で何人もの仲間が倒れていきました。
何とか今日も生き延びました。
目の前に横たわる厳しい現実。
彼等はこの闇を睨み付けるしか無かったのでしょうか?
明日もまた同じ繰り返しなのでしょうか?
夢も希望もないこの生活が。
一体、何のために生まれてきたのか?そして何処に行くのか?
そんな時に彼等はラスタファリアニズムに出会います。
そこに魂の拠り所を得ました。
その思想に救われ傾倒していきます。
それが自然な流れだというのは明確です。
そして唯一の希望であった音楽に加えて、新しくレゲエを知ることになります。
もう迷う事はありませんでした。
貧困から、差別からの解放を、そして自由の為に歌い始めました。
「立ち上がるんだ。自由のために。」 ボブ・マーリーの言葉です。
そして5人の若者とは、ボブ・マーリー、ピーター・トッシュ、バニー・ウェイラー、ビンセント・フォード、ジョージーです。
「No Woman, No Cry」の歌詞からの情景です。
ボブ・マーリーが去った後もその功績やラスタ思想が取り上げられます。
しかしそこには、それだけではなくただ純粋に生きようとした人間本来の姿があります。
・・・ボブ・マーリーの名言を。
「どうやって生きるのかなんて誰にも教えられない。
自分が望む生き方で人生を精いっぱい生きるべきだ。重要なのは正しく生きることだ。」
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