1970~90年代をメインに活躍し、沢山の名曲を世に送り出したBilly Joel(ビリー・ジョエル)。
POPで親しみやすさを持ちながらも力強く、また繊細で美しいメロディーを生み出し、時には社会問題を題材に鋭く切り込んだメッセージ性の強い歌詞をのせ、ある時は美しい愛の言葉をのせて数多くの名曲・ヒット曲を生み出してきた、生粋の【Piano Man】であるビリー・ジョエル・・・。
AOR(正式にはAlbum Oriented Rockの略)を代表するシンガーソングライターである彼の人生には、様々なエピソードが存在します。
そんな彼の一般には知られていない人間的な側面も紐解きながら、彼の魅力に迫ってみたいと思います。
Billy Joel プロフィール・経歴
名前:Billy Joel(ビリー・ジョエル)
本名: William Martin “Billy” Joel
生年月日:1949年5月9日
出身地:アメリカ合衆国ニューヨーク州サウス・ブロンクス
身長:165cm
ビリーの父親であるハワード・ジョエルは、ドイツのニュルンベルクで育ちました。
ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害から逃れ、スイスやキューバを経由しニューヨークへと逃亡しました。
彼もまた、ショパンやシューベルトといったクラシック音楽を愛し、演奏するピアノ・マンでした。
とある音楽公演に参加していたハワードは、そこで歌手として公演に出演していたロザリンドと知り合い、恋に堕ちます。
やがて結婚した二人はブロンクスに暮らすようになり、長女のジュディとビリーをもうけます。
そんな両親の元、当然のようにビリーは4歳から母の願いでクラシックピアノの英才教育を受けるようになります。
元々、彼はスポーツよりも音楽への興味が強かったのですが、少年時代にいじめを受けていたビリーは自衛手段としてボクシングを習い始めます。
アマチュアボクサーとしての試合での戦績はまずまずで、22勝を記録しましたが24回目の試合で相手選手から鼻の骨を折られ、それをキッカケにボクサーとしての道を断念することになります。
ちょうどその時期はビートルズ旋風が全米に上陸した頃であり、有名なTVショーである「エド・サリバンショー」でのビートルズのパフォーマンスを見た彼は触発され、14歳でエコーズというバンドを結成します。
高校時代にはすでにバーでピアニストとして働いていたビリーは、それが原因で学業が疎かになり英語の単位を落としたことがキッカケで中退します。
けれどビリー本人は「俺は大学に行きたいわけじゃなくて、コロムビア・レコードに行くから高卒の資格なんて必要ない」と言い切り、後にそれを有言実行してしまうのです、さすが!!
デビューからヒットまでの紆余曲折
その後はロングアイランドを拠点に活動していた“ハッスルズ”というバンドに在籍し、このバンドのドラマーだったジョン・スモールと“アッティラ”というユニットを結成、2枚のアルバムをリリースするも成功する事はないまま解散。
その後、出会ったアーティ・リップというプロデューサーに才能を見出されたビリーは、彼と契約を交わし1971年に初のソロ・アルバムである『Cold Spring Harbor』をリリースすることに。
けれどこのアルバムには不幸なエピソードがこれまたあって・・・
マスターテープの回転数を上げた状態でマスタリングが行われるという、嘘のような本当の話によって原型を留めない歌声に仕上げられリリースされることに。作品を聴いたビリーは当然、怒り心頭でレコードを道に投げつけたそうです。
当然のようにこのアルバムはヒットすることもなく、元々とても繊細な面があるビリーはメンタリティーの部分に欠陥(うつ病等の精神疾患)を抱えていたこともあり、この件で人間不信から病状が悪化して自宅に引き篭もるようになってしまいます。
病状が緩和した後の彼は、生活のためにビル・マーティンと名乗りナイトクラブで音楽活動を再開し、その後コロムビア・レコードと契約。
1973年にアルバム『Piano Man』にて再デビューを果たし、タイトル曲の「Piano Man」がスマッシュ・ヒットとなりようやく、ミュージシャンとしてのビリーは軌道に乗り始めます。
そのその後は『The Stranger』『52nd Street』といったヒットアルバムを発表し、日本での人気も爆発することに。 今までの苦労を払拭するかのようにその後のビリーはヒットナンバーを続けざまに飛ばし、世界的な人気ミュージシャンへと成功していきます。
こうやって、成功への階段を上り始めたビリーですが、その後の人生には成功と言う光の裏側で様々なアクシデントを起こしていくようになります。
スキャンダラスな女性関係と事故
アルバム『The Nylon Curtain』のレコーディングを開始した直後の1982年、彼はオートバイ事故を起こし、左手首に重傷を負い1ヶ月入院生活を余儀なくされます。
ピアノが弾けない彼はレコーディングの続行を断念、一時休止せざるおえなくなります。
この頃に婚姻関係にあった妻のエリザベス・ウェーバーは、以前はビリーのビジネス・パートナーだったジョン・スモールの妻だった。ビリーとエリザベスの不倫関係をスモールに知られると、ビリーは罪悪感と共に、失恋にも悩まされて精神的に追い詰められます。
精神的な逃げ場をなくした彼は、大量の睡眠薬を飲み自殺を図ろうとします。
朦朧とする意識の中、スモールへの謝罪の電話をかけそのまま意識を失うことに。
心配したスモールが駆けつけると、床に倒れこんでいるビリーを発見して病院に搬送し一命を取り留めることになります。
絶望の底に沈んだ彼は、その後も何度か自殺を図りますが未遂に終わります。
もとから患っていた精神疾患が悪化した彼は精神科病院に入院、そこで自分自身と向き合う時間を得ることとなります。
そこで出会った他の入院患者達と関ることで、自分が抱えている問題なんていうのは他の人達に比べればどうってことない、自分は克服することが出来ると思えるようになります。
その後、24歳でエリザベスと結婚しますが9年後に離婚しています。
つらい辛い日々を乗り越え、音楽活動を再開したビリーは1982年にオフで滞在したサン・バルテルミ島で出会ったスーパーモデルのクリスティ・ブリンクリーと交際、のちに結婚。
(彼の1983年のヒットナンバーである『Uptown Girl』に彼女が出演しており、当時話題になった)
2004年にはテレビタレントである23歳のケイティ・リーと再婚(2009年に離婚)。
2015年には2009年から交際していたアレクシス・ロデリックと結婚、彼女はその頃すでに妊娠しておりその後女児を授かることに・・・
とまぁ、大スターであり色男であるビリーにとって女性は欠かせない存在だったようです。
精神的な脆さを抱え、その繊細さ故に素晴らしい楽曲を生み出してきたビリー・・・
そんな彼の心の隙間を埋めていたのは、出逢ってきた女性達だったのかもしれませんね。
現在のビリージョエルの活動
アルバム『River Of Dreams』を1993年に発表したビリーは、現役のミュージシャンとしての活動から身を引くことを考え始めたようで、その後の彼の活動はライヴを中心とした物になっていきました。
その後の彼は、原点回帰とでも言うべきクラシック音楽への道を進みはじめ、2001年には初のクラシックアルバムである『Opus 1-10 Fantasies & Delusions – Music for Solo Piano』をリリースし、当時は彼の路線変更にかなりの話題となりました。
結果、ビルボードのクラシック専門チャートで18週に渡り首位を記録と、大成功を納めます。
しかしその後は繊細な性格や持病により、アルコール依存症や鬱病が原因で入退院を繰り返したり、3度の交通事故を起こしたりと、ビリーの人生は相変わらず波乱に満ちていたようです。
現在も精力的にツアーを継続しているビリー。
まだまだ彼からは目が離せなさそうです。
まとめ
ということで今回はビリー・ジョエルのご紹介をさせて頂きましたが、いかがでしたでしょうか?
女性スキャンダルや精神疾患、事故等スキャンダラスな面が強調されがちですが、そういった彼の繊細な精神だからこその楽曲・歌声があることも事実であり、ある意味とても芸術家肌の人なのだだと思います。
この記事をキッカケに、彼の楽曲に興味を持ってくれる人がいたならうれしいです。
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