1997年にDestiny’s Childとしてデビューして以降、数多くのヒットを飛ばし世界的なスーパー・アーティストとして活躍を続けて来たBeyoncé(ビヨンセ)。
2005年のグループ解散以降もソロでの活躍を続ける彼女。
抜群のルックスと歌唱力、圧倒的なパフォーマンスとセルフプロデュース能力を武器に、時に華やかに。時に繊細に。時にたくましさを見せる彼女の魅力を軌跡を辿りながら探ってみたいと思います。
ビヨンセの生い立ち
【プロフィール】
Beyoncé (本名: Beyoncé Giselle Knowles/ビヨンセ・ジゼル・ノウルズ)
生年月日:1981年9月4日
出身地:アメリカ合衆国テキサス州ヒューストン
身長:170cm
ビヨンセはアフリカン・アメリカンである父・マシュー・ノウルズ(Matthew Knowles)とルイジアナ・クレオールの家系にある母・ティナ (Tina) の長女として生を受けます。
幼少の頃からAretha Franklin,Whitney Houston,James Brown, Stevie Wonder等が好きで、ソウルミュージックやゴスペル、リズム&ブルースといった音楽にのめり込むようになります。(彼女の楽曲にSoul Music的アレンジが多いことや、“Single Ladies”のPVが若かりし頃のTina Turnersを彷彿とさせるものだったりということが表しているでしょう)
7歳の頃、ダンス・スクールに通い始めるとその才能が開花、ビヨンセを指導していたダンス講師の勧めによりスクール主催のタレント・ショーに出演する事に。
ステージ上でパフォーマンスすることの快感に目覚め、自分の知らない自分の魅力が発揮されることに気がついた彼女は自信を持つようになります。
彼女の才能に気付いた両親の勧めにより、ガールズグループ“Girl’s Tyme”(ガールズ・タイム)を結成。
Michael Jackson やTina TurnerのLIVEを見ては影響され、スターを日夜目指していたがGirl’s Tyme自体はなかなか結果を出す事が出来ませんでした。
そのため父であるマシュー・ノウルズは一念発起、勤務先のゼロックス社を退社し娘のためにマネージャーとして生きる事を選択します…それだけ娘の才能を信じていたのでしょうね。
Destiny’s Childとしての経緯
その後、ビヨンセを含むグループのメンバー達はレッスンに専念する事を選択、学校を中退しメジャーデビューに向けての活動に専念する事に。
1996年にビヨンセの母・ティナの提案によりグループ名をDestiny’s Childに改名、4人組ガールズグループとして1997年にコロムビア・レコードよりデビューすることになります。
Destiny’s Childはビヨンセの父のマネージメント、母親のスタイリストという家族経営で活動を行っていましたが、そのことが一部のメンバーの反感を買う事となってしまいます。
そのことが原因となって、メンバーであるラターヴィアとラトーヤが2000年に脱退するに至ったと言われています。
新メンバーを加えたて活動を再開したものの、2005年に解散。
再結成の噂は幾度となくありますが、イベント的な限定的再結成はあったものの本格的な再結成には至っていません。
ファンからはもう一度…と望む声は耐えません。
ソロとしてのその後
解散前の活動停止中だった2001年、メンバーはソロ活動をそれぞれ行っていました。
ビヨンセはMTV制作のよる映画“Carmen: A Hip Hopera”(カルメン:ア・ヒップ・ホペラ)の主役に抜擢されたのを皮切りに、2002年の“Austin Powers in Goldmember”(オースティン・パワーズ ゴールドメンバー) に出演と女優としての道も歩き始めます。
2003年6月に待望のソロデビュー・アルバムである『Dangerously in Love』をレコーディング期間1年半を費やしてリリース。
現パートナーであるJay.Zをフィーチャリングした1stシングルである『Crazy In Love』(ちなみにこの曲の元ネタはThe Chi-LitesのAre you my woman)は、8週連続The Billboard Hot 100で1位を記録し、この年の大ヒットナンバーとなりました。
1stソロ・アルバムである『Dangerously in Love』は、アメリカ・イギリス・カナダでThe Billboard Hot 100、R&Bアルバムチャートの両方で1位を記録。
アメリカ本土だけでも400万枚、全世界では1,100万枚以上という驚異的なセールスを記録。
2010年の第52回グラミー賞においては「最優秀楽曲賞」を含む6部門を獲得し、自身が持つ第46回(2003年度)での5部門取得の記録を塗り替えることに。
これによりビヨンセは女性アーティスト史上最多新記録を樹立します。
2006年には2ndアルバムである『B’DAY』をリリース。
シングルカットされた「Irreplaceable」は、BEYONCE史上最高の全米チャート10週連続1位を樹立する特大ヒットに。
同年冬に全米で公開された主演映画『Dreamgirls』は、ゴールデングローブ賞とアカデミー賞にノミネートされ、世界中で話題になりました(日本でも2007年に上映)。
妹の存在
ビヨンセの実の妹であるソランジュ (Solange Knowles) は、元々Destiny’s Childのバックダンサーを務めるなどの下積みを経験していました。
2002年、16歳の時に初のスタジオアルバム『Solo Star』(ソロスター) でデビュー。
Destiny’s Child加入の噂も流れましたが、加入する事はなくその後アメリカンフットボール選手のDaniel Smith(ダニエル・スミス) の子を妊娠し、結婚(現在は離婚)。
ソランジュの息子である甥のジュールズをビヨンセはとても可愛がっていました。
ソランジュはDestiny’s Childのために楽曲を提供したりしながら、2007年にソロ活動を再開。2016年9月には8年ぶりの3rdアルバム『A Seat At The Table』をリリース、アリシア・キーズやケンドリック・ラマーといったアーティストも絶賛し、TIME誌の年間ベスト・アルバムで2位に選出されるなど話題をさらいました。
結婚と出産、父親との関係
2008年4月4日に長年恋人と言われていたラッパーのJay-Zと極秘結婚。
友人や親族のみの内輪の結婚式を行うが、マスコミなどへの公表は一切行われませんでした。
2008年1月、ビヨンセは母からの助言を受け入れて活動休止を発表。
その後、約9ヶ月間の休暇を得ますがこの期間に父でありマネージメントを取り仕切っていた父・マシュー・ノウルズからの独立を決意。
父とのビジネス上での契約を終了し、これ以降は夫であるJay.Zとの共同マネージメントを行うことに。
この事を決意した背景には、ビヨンセが初めての子供の流産を経験したことが大きく影響しており、ビジネスパートナーとしてではなく家族としての父との繋がりを守るために決意したということを後に語っています。
2009年8月28日、MTVビデオ・ミュージック・アワードに出演し『Love On Top』のパフォーマンスを披露した直後、衣装のブレザーのボタンを外してお腹を示し妊娠を発表。
世間をアッと驚かせました。
2012年1月7日に長女を出産し、アルバム『4』からのシングル「Love on Top」が2012年3から4月にかけてビルボード R&Bチャートで7週連続1位を獲得。
2017年6月には双子を出産して世間を驚かせています。
素顔のビヨンセ
2016年に発表されたアルバム『Lemonade』では夫の不倫への思いや、不倫相手への嫉妬心などといった激しく強い女(母)の印象が強かったですが、実際の彼女はどうなのでしょうか?
ワールドツアーに参加した唯一の日本人である、ピアニストの辻利恵氏は「彼女はメンバーそれぞれにソロパートを設けてくれたりバンド思いの人で、裏表のない性格で非常に優しい人」と語っています。
“ステージでの自分は別人”とビヨンセ本人が言うように、実際のビヨンセとのイメージは大きくかけ離れていて、ギャップに驚く人が多いらしいです。
「現実の世界の自分はもっと傷つきやすい人間」と、ビヨンセ本人はよく語っています。
対面取材した記者の話によると、ステージ裏での素顔のビヨンセは礼儀正しく、控え目な印象だそうです。
ただ、夫Jaz-Zに対する積極的な愛情表現などはとても情熱的だったりといった部分は垣間見えたり、信心深い面があったりと一般的に想像するよりも保守的で女性らしい面があるそうです。
まとめ
ということで、今回は世界的ディーバ・ビヨンセをご紹介しましたがいかがでしたでしょうか?
毎年グラミー賞では話題を提供してくれるビヨンセですが、普段一般にはあまり知られない両親との関係等にも着目してみました。
パートナーであるJay-Zとの関係など、話題に欠くことのないビヨンセですが、今後どんなパフォーマンスを披露してくれるのか今後も注目したいと思っています。
この記事をキッカケに、彼女の楽曲に興味を持ってくれる人がいたならうれしいです。
人気記事
⇒ビヨンセの注目記事まとめはこちら