Michael Jackson(マイケル・ジャクソン)

マイケルジャクソン(Jackson5)の軌跡に迫る!プリンスとの不仲説と最後

“King Of Pop”と称される、世界的TOPスターであるMichael Jackson(マイケル・ジャクソン)。
数多くのアーティスト達に影響を与え続ける偉大なるその存在は、満50歳という若さで謎の死を遂げました。
今もなお世界中に大いなる影響を残しつづけ、人々の心に彼は存在し続けています。
そんな彼の軌跡とエピソードに、今回は迫ってみたいと思います。


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Michael Jackson プロフィールと生い立ち

本名: Michael Joseph Jackson/マイケル・ジョセフ・ジャクソン
生年月日:1958年8月29日
出身地:アメリカ合衆国/インディアナ州ゲーリー
身長:178cm

アフリカン・アメリカン街であるゲーリーでジャクソン家の六男として生まれたマイケル。
父のジョセフはクレーン操縦士、母のキャサリンはパートタイマーとして働き家計を支えていました。

マイケルの兄であるジャッキー、ティト、ジャーメインの三人は無断で父の大切にしていたギターを持ち出しては練習していましたが、ある日ティトがギターの弦を切ってしまった事がキッカケでばれてしまい、父ジョセフの怒りを買う事に。

ジョセフが手を挙げようとしたその時、ティトが「僕だってちゃんとギターを演奏出来る!!」と反発し、ジョセフに「だったら弾いてみろ」と言われティトは必死に演奏します。
それを聴いたジョセフはその演奏に才能を感じ、子供達に音楽を本格的に教える事を決心します。

音楽活動を開始した当初、幼いマイケルは参加していませんでしたが母のキャサリンの「この子も歌が上手なのよ?」という言葉により、加入する事に。
グループとしての形が明確になり始めたこの頃から“Jackson5”と名乗るようになります。

マイケルJackson5結成へ

1968年にインディーズ・レーベルであるスティールタウン・レコードより『Big Boy』でデビューすることに。
その頃に出会ったボビー・テイラーによりJackson5は才能を見出され、それをきっかけにメジャー・レーベルであるモータウン・レコードと契約。1969年、ついに『I Want You Back』にてJackson5として待望のメジャー・デビューを果たします。

デビュー曲でいきなりの全米チャート1位獲得すると、続いて『The Love You Save』、『I’ll Be There』もチャートの首位を制覇、デビューから4曲連続での全米チャート1位を取得という偉業を成し遂げます。

1971年にはマイケルが『Got To Be There』にてソロデビューすることに。
初々しさの残る子供ソウルならではの変声期前の伸びやかな歌声を聴く事が出来ます。

ちょうどこの頃、Jackson5側とモータウン側では音楽的な方向性の違いが明確化していた時期で、同レーベルの所属ミュージシャンであるマーヴィン・ゲイやスティービー・ワンダー等が自身で作詞作曲・セルフプロデュースすることに感化された彼らは、自分達も同じような形での活動をレーベル側に要求。
しかし、モータウン側がそれを拒否した為に(恐らくアイドル的な扱いを通そうとしていたのでしょう)1975年をもってエピック・レコードに移籍する事になります。

当初、彼らはJackson5としてエピック・レコードからリリースすることを望んでいましたがモータウン側が認めなかったために、“Jacksons”へと改名を余儀なくされます。

Jacksonsとして活動をする中、1978年にはミュージカル映画“The Wiz”に出演。
エピック・レコードからのデビューシングル『You Can’t Win』はその映画のサウンド・トラックに収録されました。

映画撮影中、撮影現場でマイケルはクインシー・ジョーンズと運命の出会いを果たす事に。
エピック・レコードからのソロ・デビューを考えていたマイケルは、クインシーに「僕に合いそうなプロデューサーを知らない?」とクインシーに相談すると「なんなら僕じゃダメかい?」と答えたというエピソードが伝えられています。

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ソロとしての活躍

そんなエピソードを経て、1979年にはクインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎えて、名盤『Off The Wall』のレコーでイングを開始することに。
7月に発売された先行シングルである『Don’t Stop ‘Til You Get Enough』では念願だった、初の自身での作詞作曲を手がけることに。

マイケルの歴史上でも、現在に至るまで名盤として語られるこのアルバム『Off The Wall』からは4枚のシングル・カットがされ、すべてが全米ビルボードチャートのトップ10にチャート・インするという快挙を成し遂げています。

1982年には“史上最も売れたアルバム”として認定された『Thriller』をリリース。
同年5月にはマイケルの代名詞である“ムーンウォーク”をモータウン25周年コンサート出演時に披露
1983年には、マイケル史上最大のヒットシングルとなる『Billie Jean』をシングルカット。

こうして、その後の輝かしいスターダムへの道はスタートしたのでした。

Princeという存在

1958年8月29日に生まれたマイケル・ジャクソン。
同年の6月7日に生まれたのが、日本では“殿下”の相性で親しまれた完璧主義者の天才ミュージシャンである“ヒズ・ロイヤル・バッドネス”ことPrinceです。

二人の間には昔から“不仲説”が絶える事がありませんでした。
「We Are the Worldでのマイケルとの競演をプリンスが嫌がった」とか、「プリンスがマイケルに送ったブードゥー教のお守りを異様に嫌がり、それ以来関わるのを嫌がった」とか訳の分からない説が出たりもしたようですが、実際には好敵手といった存在だったようです。

実際には、マイケルがお忍びでプリンス宅を訪れて、バスケットボールや卓球を楽しんだりしていたというバンドメンバーの証言もあるそうです。
ただし負けず嫌いのプリンスは、マイケルの顔面めがけて卓球の球を打ち込んだりと遠慮がなかった様子(苦笑)。
そのせいでマイケルは降参し、ボディガードと共に退散していたマイケルの背中に向かい歓喜の雄叫びをプリンスが上げる姿がよく見られたそうです。

その他にも、マイケルが来日時にCDショップを貸し切りで物色していた時に、プリンスの作品を複数ピックアップしているのを見た関係者から「プリンスを聴くのですか?」と問われたマイケルがプリンスを賞賛していたとか、インタビュアーにプリンスが「貴方とマイケルではどちらが喧嘩が強いと思いますか?」と問われると「彼は争う人ではなく、愛すべき人だよ」と答えたというエピソードも残されています。

マスコミはこの同じ年に生まれた二人の天才を、比較したがっていましたが恐らく当事者二人はライバルであり、また互いの才能を認め合う関係だったのでは?と思っています。

マイケルの死は、プリンスにも大きな衝撃を与えました。
その後のインタビューで彼は「愛している人を失うと言うことはいつだって悲しいことだ」と答えています。
その後に開催されたツアーでは、マイケルの「Don’t Stop ‘Til You Get Enough」をカヴァーすることもよくあったそうです。

そんなプリンスも2016年4月26日に他界。
マイケルと同じように、死因が謎に包まれた最期となったのも二人の因果を感じさせる物でした。

まとめ

ということで、今回はマイケル・ジャクソンを取り上げて、ちょっと変わった切り口でご紹介してみましたがいかがでしたでしょうか?
世界的影響力を死してもなお、与え続けるマイケルという存在と彼の生み出して来た楽曲の魅力が少しでも伝わっていたならば光栄です。
この記事をキッカケに、彼に興味を持ってくれる人がいたなら嬉しいです。

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