RCサクセション

RCサクセションのメンバーの経歴が個性的過ぎる!現在の活動は?

フロントマンである忌野清志郎はもとより、彼を支えたメンバー達も個性的なRCサクセション。

その後のバンドに多大な影響を与え、今もなおリスペクトされ続けるミュージシャンズ・ミュージシャンでもある、まさに『日本のロック・バンド』です。
そんなRCサクセションのメンバーの魅力を余すこと無く紹介してみたいと思います。


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RCサクセションの始まり

「小学校、中学校時代は音楽が一番ダメでね。特に小学校の上級の頃は最低だったね。
先生にも嫌われてたし。音楽だけダメなの。一番嫌いだったね。」あらま。意外。

「中学校の頃はマンガ家になろうと思ってたんですよ。手塚治虫先生の『マンガの描き方』って本を買ってね、それで一生懸命勉強したんだよね。」マジで?マンガ家キヨシロー様だったかも?

忌野清志郎のロングインタビューからの発言です。
意外にも音楽が一番って子供じゃ無かったんですね。
いやいや、逆に普通の子供じゃんって感じですよね。

それが高校生になって、フォークギターを手にし、歌を歌い始めます。
そして中学の同級生だったリンコさん(小林和生)と破廉ケンチとバンドを結成します。
RCサクセションの始まりです。

サウンドの変化、不遇時代、メンバーの脱退、加入と紆余曲折を乗り越え「キング・オブ・ロック」と言われるバンドになります。
それでは、そんなRCサクセションのメンバー一人一人を紹介していきます!

忌野清志郎 (ヴォーカル・ギター)

名前:忌野清志郎 (いまわのきよしろう)
本名:栗原清志
愛称:キヨシロー
担当:ヴォーカル・ギター
生年月日:1951年4月2日
出身地:東京都中野区

日本を代表するロックヴォーカリスト、RCサクセションのリーダーでもあります。

清志郎は幼い頃にすでに両親とは死別しており、叔母夫婦に養子として引き取られました。

冒頭の記述の通り、小・中学校時代は本気で漫画家を目指していました。
近所にタツノコプロがあり、代表の吉田竜夫氏がいたため自分で書いたマンガを持ち込んだりしていたそうです。

しかし、コロコロ変わる性格だったと言う通り、一方では1966年、同級生の小林和生と破廉ケンチと共に「The Clover」を結成します。
エレキギターでベンチャーズのカヴァーなどをしていたそうです。

そして高校進学の際に母親から「都立に行くならギターを買ってやる」といわれ東京都立日野高校へ進学し、ギターを始めます。
この頃フォークがブームとなっていたため、即座にエレキからフォークに乗り換えました。
やはりコロコロ変わる性格だったみたいですね。

1967年に高校進学の為に「The Clover」解散。
そして「The Remainders of the Clover(クローバーの残党)」というバンドを結成します。

1968年に破廉ケンチがバンドに戻りバンド名を「The Remainders of the clover succession(クローバー~からの継承)」としRCサクセションが誕生します。
ちなみに高校時代の同級生に俳優の三浦友和がいます。

そして、その後紆余曲折を経ながらRCサクセションは、日本のロックシーンのトップに昇り詰めます。

1982年にはYMOの坂本龍一とのユニットで「いけないルージュマジック」を発表、その音楽やファッションは注目を集め、時代の寵児として取り上げられました。

1985年には独立し自分達の事務所を立ち上げますが、RCサクセションとしての活動は停滞
各個人のソロ活動の方が活発になっていきました。

1988年には問題のアルバム「COVERS」が発売中止となります。
これに反発しザ・タイマーズを結成、さまざまなミュージシャンのライブやイベントに乱入し話題を呼びました。
清志郎なりの表現、主張ですね。
しかし、この活動のためかRCサクセションの崩壊が進んで行く事になりました。

1990年アルバム「Baby a Go Go」をリリース
これを機に翌年、RCサクセションの無期限活動休止を表明、事務所も解散しました。
その後清志郎はソロ活動を開始、様々なバンドやユニットを渡り歩く事になります。

また2000年頃からサイクリングにはまり、ツアーの移動に自転車を使ったりとその自転車熱は生涯続きました。

2006年、喉頭がんであることを発表し、全ての活動を休止します。
清志郎は摘出手術を行えば声が出なくなる事から手術を拒否、抗がん剤と放射線治療を選択しました。

2008年復活ライブを開催するも、癌の転移が発見され、再び活動休止を余儀なくされます。
そして2009年5月2日癌性リンパ管症にて死去。58歳でした。

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小林和生 (ベース・コーラス)

名前:小林和生 (こばやしかずお)
愛称:リンコ
担当:ベース・コーラス
生年月日:1951年12月5日
出身地:東京都

忌野清志郎とは小学校からの同級生。
1966年に清志郎、破廉ケンチと共に「The Clover」を結成します。

中学校時代、ビートルズの真似をして騒いでいたという清志郎達、当然その中にリンコさんもいたのかと思いきや「クラスの規則が分からないのかね」と清志郎を怒るリンコさん。
真面目な優等生タイプだったそうです。

そういった性格だったからでしょうか、RCサクセションとして活動するも売れない不遇時代、芸大のベース科に入学、ベースの再勉強をして、テクニックと理論を強化しました。
結成当初から最後のアルバムまで、清志郎と共にRCサクセションを支えてきた重要な人物でもありますね。

RCサクセション活動休止後は元、古井戸の加奈崎芳太郎のツアーに参加したり遠藤ミチロウとライヴを行ったりしていました。
しかし、現在は音楽活動を辞めて左官業をしているらしいです。

破廉ケンチ (ギター・コーラス)

名前:破廉ケンチ (はれんけんち)
本名:桶田賢一
愛称:ケンちゃん
担当:ギター・コーラス
生年月日:1951年9月19日
出身地:九州出身

中学時代に東京に転校し、忌野清志郎、小林和生と出会います。
1966年に「The Clover」を結成、リード・アコースティックギターを担当。

実はかなりの毒舌でステージでは清志郎と共に観客に悪態をついていたと言われています。
売れていない不遇時代、福生で三浦友和と同居していました。

その頃のエピソードで、お金がないのでバイトをしようということになり府中のビール工場へ行く事になり破廉、三浦、忌野の3人で「何日か行けばいくらになる。」と皮算用までしたのですが、当日の朝やはり清志郎だけ起きることが出来ず、破廉と三浦だけでバイト行ったという話がありました。

RCサクセションがフォークからロックに移行していくにつれ、エレキサウンドに馴染めなくて鬱状態になってしまいます。
「シングルマン」発表後、1977年にグループを脱退します。
が、実はかなり鬱状態が酷く、ギターを弾くことも出来なかった為に、止む無く清志郎がクビにしたと言われています。
現在は株式会社ポリスターに音楽プロデューサーとして在籍しています。

仲井戸麗市 (なかいどれいち)

名前:仲井戸麗市 (なかいどれいち)
本名:加藤秀明
愛称:チャボ
担当:ギター・コーラス
生年月日:1950年10月9日
出身地:東京都新宿区

10代の前半頃からビートルズやソウル、ブルースなどの音楽に傾倒していきました。

1968年高校3年生の時に奥津光洋と古井戸を結成。
洋楽のブルースのコピーなどをしていました。

その後、加奈崎芳太郎と出会い加奈崎芳太郎&古井戸として活動していきます。
そして、度々共演していた泉谷しげると共にエレックレコードに所属します。
その頃には加奈崎芳太郎と仲井戸麗市の2人のデュオになりました。

1978年頃から、RCサクセションのサポートメンバーとして参加し始めます。
もともと知り合いだった清志郎と仲井戸麗市、清志郎が「一緒にやらないか?」と誘ったのがキッカケで参加するようになったと言われています。

RCサクセションも暗黒の不遇時代、そして古井戸も丁度煮詰まっていた時期でした。
加奈崎がソロ・アルバムを出すという話がキッカケで古井戸は解散、破廉ケンチ脱退後のギターのポジションに仲井戸が正式に加入します。1979年の事ですね。

そして清志郎とともにRCサクセションの全盛期を支えていきます。
またソロ活動も並行して行い、泉谷しげるのバンド「LOSER」への参加などがあります。

RCサクセションが無期限活動停止に入ると、ストリート・スライダースの蘭丸(土屋公平)とのユニット麗蘭を開始します。
忌野清志郎の最期を看取ったひとりでもあります。

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新井田耕造(ドラム)

名前:新井田耕造(にいだこうぞう)
担当:ドラム
生年月日:1953年3月25日
出身地:東京都台東区浅草

ミスタースリムカンパニーや杉真里などとの共演後、1978年、仲井戸麗市と同時期にRCサクセションにドラマーとして加入します。
ドラムレスだった編成に新井田耕造が加わることで、強固なロック/R&Bの基盤が出来上がりました。
仲井戸麗市と共にRCサクセションの黄金期を支えるメンバーとなります。

最後のアルバム「Baby a Go Go」の制作中に脱退、その後はRCサクセションのライヴサポートメンバーだったサックス奏者、梅津和時のユニットバンドに参加。

2013年に再結成した日本の誇るブルース・バンド、憂歌団に正式に加入しました。

G2 (キーボード)

名前:G2(ジー・ツゥー)
本名:柴田義也
愛称:ゴンタ2号、Gee2wo
担当:キーボード
生年月日:1954年9月17日
出身地:兵庫県神戸市

本来、ジャズピアニスト。キーボード奏者です。
高校時代から音楽活動を始め、国立音楽大学作曲科に進学し作曲を学びます。

アルバム「シングルマン」のレコーディングに参加。
その後は原田真二のサポートメンバーなど、数多くのアーティストのバックミュージシャンとして活動。

1980年に、正式にRCサクセションに加入します。
清志郎との共作の楽曲も多く、欠かせない存在になっていきます。

清志郎が明大前に住んでいる頃、G2も近所に住んでいて、よく夜中に一緒に遊んだり、作曲したりしていたそうです。
元々、クラシックやジャズが専門で作曲を先行していた為、音楽知識は当時のバンドの中では一番しっかりしていたので、当然作曲のみならず、アレンジも自ずと行っていたと言われています。

また、自転車好きで清志郎と趣味が同じだった為に、リハーサル・スタジオまでよく二人で自転車で通っていたそうです。

1990年にRCサクセションを脱退、その後パーカッションの修行を経て現在は長野県のミュージック・スクールで講師を勤めているそうです。

「良い子 悪い子 フツーの子」

1970年代から1990年代初頭まで活動したRCサクセション。
実際メディアに露出して活躍したのは1980年代に入ってからで、そういった意味では顕著な活動期間は10年程という計算になります。

ただし、その期間に残した日本のロックにおける功績は多大なるもので、RCサクセションなしでは現在のロックの基本は築けていなかったといっても過言ではないでしょう。
RCサクセションを見て、聴いて、ロックバンド結成という話も多く、その影響力は絶大でした。

高度経済成長期も終わり低成長期に入り、保守的傾向へと移っていく時代。
大きな変化もなく比較的安定していた頃で、余裕が出来てきて、文化ファッションなどに敏感に反応するようになったと言われています。

そこに氾濫したのは、事なかれ主義、中流意識などの社会風潮でした。
そして良い子のためのお手本のような文化。

でも、そんなにデキた良い子ばかりでは無かったんですよ。
そんな風潮になじめず、不満たらたら、そこんトコ、夜露死苦って輩も多くいました。暴走族の方々ですね。
悪い子のパターンでしたねぇ。

その一方で、いいじゃん、フツーで。
みんなと一緒、楽しけりゃイイさ。
そんなフツーの子が大半でもありました。

「赤信号みんなで渡れば怖くない」そんなフレーズもありましたねぇ。

そんな時にストレートな言葉で、メッセージを投げかけたのがRCサクセションでした。
見て見ぬふりをするのではなく、沈黙の暴力になれるのではなく本当の声をあげるべきと。
それぞれ良い子、悪い子、フツーの子を図らずも演じていた若者には衝撃のメッセージでした。
疑問や不安を抱かずに生きていけるほど、鈍感じゃないって事ですよね。

そしてRCサクセション自身も順風満帆ではなく、苦悩し、葛藤してきました。
そんな姿勢にも多くの若者達が共感したのではないでしょうか?
何ナニ?そんな青臭い事をって?イヤイヤ青臭いから、ロックなんだぜ、ベイベー!

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